うくひすのこほれる涙

読書おぼえがき

さまざまな発見

和歌と言えば・・・

 

なんとなく、お上品な世界を思い浮かべ・・・

 

花鳥風月などを心情とともに描写しているものと、考えたりしがち。

 

たぶん、学校で習った「古今和歌集」の中の作品を連想するのだろうな。

 

一方、同じ歌集でも、「万葉集」には、もう少し野性味のあるイメージがある。

万葉集」と聞いて私が一番に思い浮かべるのは、額田王の歌だ。

 

・・・・・

あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守はみずや 君が袖ふる

・・・・・

 

そして、これも。

 

・・・・・

熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな

・・・・・

 

繊細さよりも、本能的な力強さを感じるのだ。

 

 

 

 

が・・・

もっと野性味の強いのがあった。

 

・・・・・

枳の 棘原刈り除け 倉立てむ 屎遠くまれ 櫛造る刀自

・・・・・

 

なんと、ノグソするばあさんを詠んだ歌であるっ。

 

 

 

そして、こんなのも見つけた。

 

・・・・・

香塗れる 塔にな寄りそ 川隅の 屎鮒喫める 痛き女奴

・・・・・

 

知らんかった。

万葉の人々は屎(クソ)がお好き!(ほんまかいな)

 

「痛いヤツ」という表現は、すでにこの時代にあったのか???

 

和歌っていうより、川柳のような。。。

 

いつだったか、そんな川柳の本、書店で見かけたなあ。

 

大阪のおばちゃんの川柳本、だったような記憶。

 

 

 

 

さて、現代にまでも通ずる、という点では、こんな歌もある。

 

・・・・・

鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

・・・・・

 

むむむ?

 

まっさんの「防人の詩」って、こっから来てるのか?

 

 

 

ある種の天才

源氏を読みつつ、「紫式部は天才だっ!」と思ったのであった。

 

そもそも、この物語は、式部が仕える天皇や中宮などに話して聞かせて教育するために作られたのだそうだ。

 

そして、これは「源氏の物語」。天皇の子として生まれ、皇位継承争いから外れて天皇の臣下になった「源氏」の物語なのだそうだ。

 

そうした背景があると思って読むと、『うまいことこしらえるなぁ。』と感心したりする。

 

「こういう時は、こうこうこういう風に立居振舞うのですよ。」などと言われても、説教臭くて頭に入って来ないものだが、面白い物語の中に組み込まれていると、「情」を介してストンと腹に入ってくるものだ。

 

 

 

一方、現代に生きる人間にとっては『ん?』と思える箇所もあったりするが・・・

 

 

天皇制をどう考えるか・・・

身分制度の是非・・・

そういう事は近代民主主義社会以降の政治思想、社会の問題で、源氏物語の世界は平安京の時代。

 

そして、文学という範疇の世界。

 

現代の人間が、今自分のいる時代と世界に引き寄せて考えると、大きく誤るのだろう。

 

無論、底辺にある「人間の情」というものは、古今東西共通するものがあろうが。

 

 

 

源氏を読み終わった後、読みかけの「万葉集」をまた読み始めた。

そして、こんな歌を見つけた。

 

・・・

山背の くにの都は 春されば 花咲きををり 

秋されば 黄葉にほひ 帯ばせる

泉の川の 上つ瀬に 打橋わたし

淀瀬には 浮橋わたし

あり通ひ 仕へつらむ 万代までに

・・・

 

天平時代の久邇京を歌ったものだが、薫と浮舟のお話を連想してしまった。

 

薫にせよ、光にせよ、「ただお目当ての女をものにすれば、それで良し」的な恋のハンターではないのだ。

 

「あり通ひ 仕へつらむ 万代までに」の心意気がある。

 

 

ま、末摘花の場合、「あり通ひ」もあまりなさそうな・・・

 

それでも光が、お世話申し上げたくなる末摘花。

 

むむむ・・・

 

究極のイケイケって、こういう女性なのか。

 

紫式部の胸の内では。

 

 

一見、しりきれとんぼ

やっと、源氏を読破した。

 

が、読後感想は・・・

 

ネバーエンディングな後味の悪さ、といおうか。

 

アメリカ映画のヒット作といえば、単純明快で、見終わった後、というか見終わる前から、結末が分かるような安心感があるが・・・

 

興行的にはヒットしなかったが、なぜか心に残る映画というのは、見終わった後、どこか「しりきれとんぼ」で、自分でその評価を考えなければならないようなことが多いんじゃないかな。

 

それは、しばしば「後味わるぅ〜。。。」と思えたりして。

 

桐壺帝→光→夕霧 oder 薫

と、世代世代で作られる人間模様だが、そこには、一見違うように見えながら、本質的には変わらない悲しい人間のサガが繰り返されて・・・

 

結末があるようで無い、ネバーエンディングな、人間のおバカさ加減が、どこか、しりきれとんぼで、後味の悪さを醸し出すのだろう。

 

『そんなくっきりはっきり白黒つくわけないだろー!』と、アメリカ映画のヒット作を見ると、つっこみたくなるが・・・

 

『フィクションの世界だけでも、ハッキリした終わりのある、単純明快さを求めたくなるっていうのも、心の中のどこかに確かにあったりするわなぁ〜。』などと、夢浮橋を読み終わって思ったのだった。

 

『フィクションだけど、超リアル』な源氏物語であった。

うち、からだ弱いネン

源氏を読んでいると、旅行に行きたくなってきた。

 

行き先は、勿論、京都だ。

 

「絵合」にその名が出てくる小野道風がまつられているという道風神社に行ってみたくなったのだ。

 

で、どこにあるのか調べてみた。

 

すると・・・

 

市の中心から、かなり遠いということが分かった。

 

しかも、一時間に1本くらいしかないバス。

 

しかも、バス停から、まだまだ歩かないと目的地には到達しないのであった。

 

しかも、今年のこの酷暑。

 

いつだったか、京都の最高気温が36℃とかいうのをニュースで見たっけか。

 

『この暑い中、京都観光なんて・・・

 

熱中症になりにいくようなもんだっ。』

 

と、さとった私は・・・

 

あきらめの〜

な〜つ〜

 

なのであった。

萌え〜、ならぬ、萎え〜

源氏物語」は今、「浮舟」を読み始めたところ。

 

あとは、「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」で読破できることになる。

 

が、なんだかなぁ〜。

 

宇治十帖に入ってから、どうも「読みたい欲求」が上がって来にくくなっているのだ。

前回も書いたが、なんだか暗くて重い感じがするのだ。

そんで、途中まで読んだ後『しんど〜。』となってくるのだ。

 

たぶん、この宇治十帖に出てくる登場人物の性格が読む側に影響を与えるのではなかろうか。

薫にしても匂宮にしても、なんか・・・

『ねちこい性格のやっちゃなぁ。』と思えてくるのだ。

 

ここに出てくる女性達も、なんだかピンとこないタイプである。

 

宇治十帖に出てくる人物像は、それ以前のよりも、なにか魅力に欠けるというか・・・

 

『で、あんたらの取り柄はいったいなんやねん?』と思えてしまう・・・といおうか。

 

 

気が利いて、そつのない紫の上。

儚いまでの透明感ある美しさを持つ夕顔。

末摘花は、一寸類のないド天然ぶりが魅力だし、花散里の飄々とした感じも良い。

明石上は控えめながら、なかなかに才ある人だし、秋好中宮は凛としたところが魅力。

そして、恐ろしさでは、ならぶ者無し・・・六条御息所

大和和紀さんの「あさきゆめみし」で、一番イケてる女性に映ったのが、六条御息所であった。

美しく、そして怖〜いマダムである。(「極道の妻たち」の岩下志麻を連想するのは、私だけか?)

 

光源氏だって、単なる女好きではおさまらない人物。

なにせ、美女を沢山恋人にしながら、末摘花というとんでもない人をもお世話して長くおつきあいするという(男女の間柄ではなく、時に末摘花をおちょくりながら。

「相方」が欲しかったんだろう、光源氏は。←ほんまかいな。)・・・

この懐の深さは人間としてみあげたもんだっ!

平安女子の理想の男性像だったのかもしれん。

 

 

そこからすると、宇治十帖の方が、リアルといえばリアルなのかもしれん。

 

周囲を気にし過ぎ、『気にし過ぎ芸人かっ!』とつっこみいれたくなる薫・・・

こういう性格の人がほとんどだろうし。

他人のものが欲しくなる匂宮・・・

パクリ専門、みたいなのも、よくある人物像という気がする。

オリジナリティを追求したい人の方が、たぶん少数派なんだろう。

 

結局、宇治十帖は、生々し過ぎるから、一寸読んで『もうお腹いっぱい』になってしまうのかもしれん。

 

さて、近頃『お腹いっぱい』になって、他の物がちょいと読みたくなった私は・・・

 

先頃、本屋に足を運んだのだが、どの本屋に行っても、又吉さんの「花火」、じゃない「火花」、が本屋の入り口付近に「これでもか!」と言わんばかりに積んであって・・・

 

なんだか、また『お腹いっぱい』になってしまった。

 

お笑い好きな私は、大変興味をそそられていたのだが、「火花」・・・

こう世間が騒ぐと、逆に関心が薄れてくるっていうのは、どういうことだろう。

 

一年くらい経ってから買おう。

 

ブックオフで。

 

 

もう少しだ

源氏物語」を夜寝る前に読み始めてから、もうどれくらい経っただろう?

 

ようやく、「宇治十帖」を半分過ぎた。

 

この「宇治十帖」は、それまで(雲隠、というか、幻)とは、一寸趣が異なってくるように思える。

「宇治十帖」以前は、「話して聞かせる物語」の継ぎはぎ、いわばパッチワーク的であるのに対し、「宇治十帖」は、最初から「読む物語」として思考されたように思われ、「がっちりとした長編小説」になってくる。

前者の軽やかさが、後者には無いのだ。

そして、笑える部分も無い。

(へ?『古典文学にそんなもん要求するな!』ってか?)

なにか、どし〜っと重くて暗い感じがする。

 

 

末摘花や近江姫君が懐かしい〜!

 

ところで、たとえていえば・・・

末摘花が村上ショージさんだとすると・・・

近江姫君は上沼恵美子さんである。

 

笑いって、どこにでも必要だわ。

 

静かに読むだけじゃあもったいない

日本文学を代表する「源氏物語」を、死ぬまでに一度は全部読破してみたい!

 

・・・などという欲求にかられて読み始めてみると、ふと、謎に感じることが出て来た。

 

『これって、どう発音するん?』

 

一度謎に思うと、もう止まらないのであった。

 

で、探せばあるものだ。

 

源氏物語全巻音読した人の朗読データを公開してくださっている方が。

 

やはり、世の中捨てたものではないっ!

 

感謝感激であるっ!

 

 

まだ、「松風」までしか読めてないが、ここまで読んできて思ったのは・・・

 

源氏物語というのは、超面白い群像劇だ!』ということ。

 

プレイボーイが主人公の単なる恋愛小説なんでしょ?・・・くらいな認識しかなかった私が大バカ者であった。

 

そして一寸、少女漫画チック。

 

日本の少女漫画の原点って、源氏なのではなかろうか?

 

(マンガじゃないけど)

 

大和和紀さんや魔夜峰央さんがマンガ化しておられるが、確かに、マンガにしたくなるような面白いストーリーではある。

 

 

この物語が、後世いろんな芸術方面で影響を与えたのは、『なるほどザ・ワールド』ならぬ『なるほど ザ・

 

ジャパ〜〜〜ン!』という気がするのであった。

 

 

この源氏物語という作品には、いろんな人物が登場するが、読者には各々、自分のごひいきキャラクターがあるのではなかろうか。

 

私は、末摘花である。

 

例えれば、なんだろう?

 

村上ショージさんのようである。

 

いなくても成立しそうだが、その独特な存在感は他に類が無い、っていう・・・。

 

 

紫式部にあったのか?

 

お笑い要素を入れとかないと、気の済まない関西人魂のルーツはっ!