うくひすのこほれる涙

読書おぼえがき

笑い事ではないが

最近、某デザインのパクリ問題がとかく言われている。

 

絵画なら模写というものがあり、書道なら臨書というものがある。

アナログな、技量を問う世界であり、それはそれで作品として成立している。

 

 

 

そして、どんな芸術作品も、自分が作る以前の作品にインスピレーションを受けて、あえて、それと分かる引用をしたりもする。

 

その過程で、作り手の解釈が入り、一見似たような形を取り入れながらも、違う作品に仕上げる・・・そこにオリジナリティーがあるのだろう。

 

だから、純粋まったくのオリジナリティーというのは、かなり稀なことになる。

 

だからこそ、斬新なものに対して、ある人は非常に感心もする一方、どこか見慣れたものに安心感を覚えがちな人間の習性から、ある人にとっては「理解不能」であったりもする。

 

 

 

デジタル化で機械的に作品を作れるようになると、どうしても似通ってくるものだとも思う。

 

例えば、一本の同じ銘柄のビール瓶を十人に写生させれば、モデルとなるビール瓶は同じでも、十通りの違う絵になる。

 

絵画の模写にせよ、書の臨書にせよ、写す対象は同じでも描き手や書き手によって、やはり違ってくるものだ。

 

そして、描き手や書き手同士長いつきあいなら、誰がどれを描いたか書いたか、分かってきたりもする。

 

今回浮上した問題は、デジタル化ゆえに発生したとも言えそうだ。

 

 

しかし、作り手側に回ったことのある人ならば、一度でもオリジナリティーというものと向かい合ったことのある人ならば、やはり、今回の件は「おや?」と思わないでもないのではないだろうか。

 

事は、小学生や中学生の美術作品の話ではないし、美大生の間で起きた事でもない。

 

作者は、その世界のプロであり、作品は、一国家の大イベントに絡んだものだ。

 

また、そうであるならば、訴訟がらみになる前に、事務方で素早く対応すべきであったろう。

 

そもそも、それほど複雑でない幾何学的な模様であれば、類似したものは多くこの世に存在しそうなことには察しがつくだろうし、知的財産権が重要な位置を占めるようになった今日、選考する側、事務方の脇が甘過ぎるようにも思えてならない。

 

 

そして、なにより、日本のオリンピックならば、もう少し日本らしさを感じさせるようなデザインを選ぶべきではなかろうか。

 

かな文字を入れるとか。

 

これぞ、日本のオリジナルだと思うのだが。

 

まったく、最近の右の方々こそ、日本の文化をお勉強すべきであるっ。

 

保守本流

 

笑わせる。